碁キチ自称六碁仙の旅


旅 程


因島・松山・琴平 昇段 旅行

期  日  平成16年2月11日〜2月14日
参加者  城さん 山さん 大さん 藤さん 沖さん 安さん    6名
行  程  東京〜福山〜因島・本因坊秀策-碑・記念館〜生口島・平山郁夫美術館〜
       大三島・大山祇(ヅミ)神社〜今治〜松山〜道後〜
       石手寺(五十一番札所)・子規記念館・松山城・一草庵〜松山〜
       (高松-医院・栗林公園)〜琴平〜金刀比羅宮・歌舞伎座(金丸座)〜
       琴平〜岡山〜東京
旅  館   因島   民宿 布刈(メカリ)   TEL:08452-4-0616
                  サ−ビス良く、10年前の建物で綺麗。飲んで一人9000円
        松山   道後 かんぽ       TEL:0899-77-0406
                  ホテルなみの設備
       琴平    旅館万よし        TEL:0877-75-2151
                  いにしえのビジネスホテルの感じ

囲 碁 の 旅 日 記

 遠く平安の昔、紀貫之は自分の旅した“土佐日記”をしたためたが、平成の棋連行も“囲碁の旅
日記”をここにしたためる。
(蛇足;棋連行―キノツレユキと読む、囲碁を愛する者が連れだって旅するさまを云う)
旅人:通称、城さん
   “     山さん
   “    大さん
   “    藤さん
   “    安さん
   “    沖さん(筆者)
 
第1日目;平成16年2月11日(水)

 冬の晴天に恵まれそれは穏やかな日の始まりでした。巷では建国記念日を祝し国旗などを
掲げようとしているやさき、そんな事等ちっとも意に介せず大小のバッグを小脇に抱えて東久
留米の小天狗達は無心に東京駅へと足を運んだ。15番線が待ち合わせ場所だ。
朝早くから、そこまでやるかなーと筆者は多少の疑問も抱いていたが、8:33発の“のぞみ45
号”を使用する為、彼等にもまだ棋力アップの多少の“望み”があることを信じたい。

 やがて音もなく“のぞみ”は滑るように動き始めた。ものの3分も経たないうちに、各々バッグ
よりガサ、ゴソと出し始めた、“つまみ“だ、缶ビールも”プシュと音を出し始めた。
殆ど周囲の乗客の目を気にせずに…。筆者も負けじとウイスキーに小アジで対抗した、和洋
折衷だ。
 大さんが磁石の小型碁盤セットを持出した。安さんと筆者を除き他の4人は、兼ねがね持ち
点が略10点は甘いと云われていたので、良い機会でもありそれを検証することにした。まず
城さんと安さんとの検証模擬試合だ。二人とも真剣そのもの、相当やる気だ!
しかしそれも束の間、全員アルコールが廻るにつけ勝負はそれ程重要では無くなったのだ。
つまり、車中でアルコールに気分を良くし、外野もワイワイ、両者もその雰囲気に呑まれ戯れ
楽しんでいたにすぎない、なーに、これで良いんだと思った

        “碁は勝ちと見えて和尚の昼寝かな”

ときに、城さんは“耕人”のペンネームを持つ、泣く子も黙る俳人でもある。投稿誌からの本人
の最優秀賞受賞作をご披露しよう

         “少年の夢まだ未完春の海” ――耕人

3時間40分もあっという間に福山に着いた。お昼過ぎなのでまず腹ごしらえをして、さてバス
にて、いよいよ“瀬戸内しまなみ海道への出発だ。

 海道の玄関口である向島へわたり次に初日の目的地、因島に着いた。因島は室町から戦
国時代にかけて勇名をはせた村上水軍発祥の地でもある。
道路脇の下り坂をおり、約10分も歩いた所に、今晩の宿、民宿の“布刈”(メカリ)があった。
午後3:00過ぎだと云うのに宿への道路際には人っ子一人も居なかった。まるで未知の世界
へタイムスリップしたかのよう。突堤越しに見る瀬戸内の海の青さはまた格別で既に心を奪わ
れていた。安さんは時々立ち止まりながら携帯でパチリパチリ。 
 宿に着き荷物を解く間もなく早速皆んなで、徒歩にて秀策の碑を訪れることにした。
テクテクと40分も歩いただろうか?
やがて神社らしき所へたどり着いた。
烏鷺を交わす者の一度は訪れて見たい憧れ
の場所だ。念願叶い本日、かの偉大なる碁聖
である14世本因坊生誕の地 因島の土を踏み
いまその碑の前にて手を合わす。途端に一句
出来たのだ。

 “小天狗も 半目上がる因島“  ――筆者

 宿に帰って風呂で旅の疲れをゆっくりと とる
時間ももどかしく、6:00pmの夕食まで1時間あ
るを見定めて早速、技術研修に入った輩もい
たが、このあたりが小天狗たる所以か。

 民宿のおじさん、おばさん達はとても感じの
良い方達であった。地物のメバルの煮付をは
じめ、刺身は云うに及ばずすべて手料理の馳
走に酒の杯もかさみ、旅の目的にも歓談の花
が咲き続けこのまま時間が終るやに見えたが
、ふと我にかえり“そろそろ地獄の特訓にかか
りましょう”と立ち難き一同を促したものだった。


           碁盤の台座
 8:00pm過ぎよりいよいよ本チャンの技術研修に入った。精神修養も兼ねており棋力向上を
望むからには絶対に避けて通れない約束を実行しなければならない。それは 通常平気で行
って行っている“一度打った石を無意識のうちに剥がしている”事を絶対にしない様約束して
貰う事で,いかなる理由があろうともその場で負けである事を全員に合意して貰った。
今回の旅の目標でもあるが、一晩に全員と打って一人5局を3日間こなす事は簡単そうに見えてなかなか大変であった事が後になって判った。
 秀策碑を詣でた後だけに、各々方なんとなく自信に満ち溢れて対局していた。
結果は兎も角無事1日目を終え2部屋に分かれて就寝する時間となった。
すでに12:00を廻っていた。1日の疲れで筆者は最初に夢見に入ろうとウトウトし始めた略10分も過ぎた頃だろうか?
まさかこの後に地獄の責め苦が待っていようとは夢想だにしなかったのだが。

つまりこう云う事なのだ。
隣の山さんから止むを得ない程度の第

      六碁仙(布刈にて)
1楽章が始まった。なーに、里の秋だから耐えられる鼾(いびき)だろうと高をくくっていた。筆
者はもともと寝つきが悪いので直ぐにスヤスヤ寝入ることが出来ない。云わんや、先に寝つか
れて鼾を掻かれるともう遅れをとったようで益々だめになるのだ。それでも第1楽章はかなりな
音に成長していた。ものの15分は続いただろうか、第1楽章が終りに近づいた頃に第2楽章が
音色を変えてビンビンとバイブレーションを効かせながらやって来た、はす斜め向かいの頭で
寝ている安さんだ。
ドタバタ後から寝床に入って来たのでその分楽章が遅れてい 
たのは知っていたが、-----まさか---マイッタ!ショックだった。
ブルータス、お前もか! 顔のやさしさに似合わず図太い鼻音だ。
一つならず二つも来られたら…段々憂鬱になって来た。
           
筆者は、これでもまだ幸せ?と思わなければならなかった事に、その後すぐに嫌と言う程、思
い知らされるのだ。

 寝しなに風呂に行ったと思われる藤さんが最後に部屋に入って来た。その頃既に第2楽章が
始まっていたにも拘らず、比較的静かにフトンに入ったかのように思えた。なんたって、筆者の
頭の真向かいに頭が来たのだから。本能的に嫌な予感がした。予感が的中するまでに大した
時間は掛からなかった様に思えるのだが…。早い、早〜い、寝つきが早〜い、次の瞬間来
た、来た、来た、どデカイ第3楽章だ! 第1、第2に更に差をつけた、不幸にして今まで出会っ
たことの無いトルネードとでも呼ぼうか、兎に角、この世のものとは思われない音響だ。しか
も、時間の経過と共にそれが往復になって来た。筆者はもうこの時点で、頭の中は真っ白に
なり生きた心地はしてなかった。暗闇の中を鍵を探して開いてる碁の部屋へフトンを運ぼう
か、いやいや第1、2、3楽章の頭を踏んずけてまで、そんなことは出来ない…と自問自答を繰
り返してはみたものの、名案が浮かばない、くやし〜い、泣きながら、頭を反対側にし毛布で
耳を押さえつけてみたものの、長続きはせず。最後はやけくそ気味に忍び難きを忍び、耐え
難きを耐え一睡もしないで、夜が白々明けるのを待ったのだー。
別の部屋で仲良く?寝ていた城さんと大さんが互いにライオンであったかどうかは、本人を含
めて誰も知らない。

註;2日目の簡保では、運良く\1,050の追加での小部屋を確保でき、3日目の旅館では空い
  てる小部屋をサービスで提供してくれたので、前述の様な地獄の夜は二度と経験しない
  で済んだことに、神と仲間に感謝したい。

第2日目 ;平成16年2月12日(木)

 瀬戸内の冬とは思えないポカポカ陽気に恵まれて因島を発ち、同じしまなみ海道をバスに
て散策する事にした。大三島へのバスの中、中年の通称“静子さん”に出会った。チョット見
は、川口外務大臣の若い頃によく似ている。一人旅であり、何か旅情を漂わせる意味深なと
ころが無くも無かった。何故、彼女が我々の旅日記に登場するのか不審に思う御仁もあろう
が、この後、我々の行く先々でなぜか度々、偶然とは思えないくらいバッタリ出会うのである。
既に女性に無縁の6人男衆には“猫に小判”の筈であるが…。念のため安さんはこともあろう
か、東京のアドレスメモを渡していた。いけねー、これは丸秘かな。
城さんもその後、松山城で会っても無いのに会って…と繰り返し言っていたので、妄想かと
思ったが、氣にはしていた??ようだ。
 生口島に平山郁夫画伯の立派な
美術館が建っていた。画伯は1930年
広島県瀬戸田(生口島)に生まれた。
幼年期や青年期の作品は故郷・生口
島の風土がいかに画伯の感性に影響
を与えたかを物語っている。画伯はシ
ルクロードの旅も絵にしており、求法高
僧東帰図、アンコールワットの月、パミ
ール高原を行く・・など心を打つもの ば
かりだった。
又、文化勲章や天皇“明仁”自筆サイ
ン入り賞状も飾られていた。
我々がそこを訪れた時も入口でバッタ
リ前述の静子女史に会った事は云うま
でもない。

             美術館前にて
 次に訪れたのは、大三島にある大
山祇神社である。日本最古の原始林
楠群に覆われた境内に鎮座しており
御祭神は大山積大神一座で天照大
神の兄神に当るらしい。
全国の国宝・重要文化財の指定を受
けた武具類の八割がこの大三島に保
存されているらしい。源義経、楠正成
をうった大森彦七所用の国宝の大太
刀や義経奉納の鎧が飾られていた。
国宝に圧倒された小天狗たちは満足
げに次の予定地松山へ移動を開始し
た。バスにて今治へ出て、電車にて
松山着。






             神社参道口

 改札を出たすぐ左手に構内を区切った一角より妙なる香りがぷ〜んと筆者の鼻先を攻撃し
て来た。懐かしい臭いだ。二十数年も昔、若き営業時代に出張した時の事が走馬灯の如く蘇
えった。次の瞬間“ジャコ天”だーと足がカウンターに向うことの速かった事。久しぶりに懐かし
い味に皆んなで舌鼓をうった。
食物学?的に云えば“雑魚(ザコ)”を練って名刺大の長方形に形どったものをそのまま揚げ
た物である。
つまみに最高。

 ところで行く先々の名ガイドを勤めて貰っている城さんはその情報の殆どが頭に入っている
ものの行く先々の現地に着くや否や直ぐにカタログ、観光案内、マップetc.を仕入れて来て、
全員に有無を言わさず配布していた。JTBのプロよりも迅速である。これ等の情報資料が後に
なって役に立った事は云うまでもない、感謝。
 松山駅より路面電車(\150)に乗り、道後へ着いた。目指すはカンポの宿であるが、まず繁
華街を抜けて“坊ちゃん風呂”まで歩いた。途中、先ほどのジャコ天“を売っているお店の親父
の怒鳴り声も聞きながした。記念写真をパチリしてタクシー乗り場へ向かう途中、
またまた、件の“静子さん”にバッタリ出くわした。
皆んな嬉しそうに驚いていたが、もうこうなれば単なる知人ではなく非常に近しい人に感じた
のはどうやら筆者だけではないようだ。
 カンポの宿、道後は可也の大きさでチョットしたホテル並であった。部屋も立派だし、風呂も
ゴルフ場並に大きかった。また驚くほど安くて申し分なし。次回からの旅行はカンポのある場
所に限る…とも思ったほどだ。夕食は、他の泊り客と一緒に大きいレストラン風の椅子席での
食事であるが、違和感なく大いに楽しんだ。
食後は例によって大部屋での技術研修である。
2日目であるが既にノルマを超えて3日目分を打
ち始めた輩も居た。ここにきて、そろそろ対戦成
績に差が出てきており気の早いのは、優勝者の推定論議にまで及んでいた。2日目までの昼間
の見学研修では全員余り疲れを見せず、従って10局目までは皆、勢力的である。それにしても、皆さん好きなんだね〜ん。
城さんの各宿泊先への万全の申し込みの御蔭
で毎夜3面の碁盤を使用する事が出来たのだ。
第3日目;平成16年2月13日(金)

 安さんが今日高松で所用がある為、出来るだけ早くカンポを出発する事になり、従って今朝
は全員出来るだけ早く起きて朝食を取ることになった。7:00からの朝食バイキングもなかなか
のものであった。腹ごしらえを終えそのまま徒歩にてぶらぶら歩く事15分、まず近くの石手寺
に参拝した。
 入り口石門横で巡礼風の老女が直立不動でしきりにお経を唱えているのに出くわした。
石手寺は51番札所である。本堂中央には薬師如来像が鎮座ましましていた。行基の作と伝
えられる。その右隣の古びた建物にはお大師さま、つまり弘法大師空海が鎮座されていた。
空海は確か三筆と謳われた書の大家であったと思いついついご利益を願い心で手を合わせ
た。藤さんは巡礼帖なるものを求めていたが、後で聞くところによれば、何れいつの日かご夫
婦で四国霊場八十八ヶ所を巡る旅をされると聞き、素晴らしい事だと胸を打たれた。

       “石手寺へまはれば春の日暮れたり”   子規        

       “身の上やみくじを引けば秋の風”    子規

       “葉桜の中の無数の空さわぐ”      梵(会長の恩師) 

 次に子規記念博物館を訪れた。残念ながらここで安さんは一足早く高松へ発つと云う。
入り口まで来て子規の俳句に接することなく立ち去るとは後ろ髪引かれる思いで有ったろう
が、ふと見ると安さんの後ろ髪も引かれる程沢山有るわけではないので少し安心した。

 正岡子規は松山市が生んだ近代俳句の父であるが、日清戦争から帰国した子規はわずか
2ヶ月ばかりであるが漱石とともに過ごした頃、2人は文学革新の志を語り合い将来の文学活
動の基を築く重要な場になった。子規の周囲には多くの人々が集まってきたと言う。その優れ
た指導力と独特のグループ活動によって豊かに才能を伸ばされ各分野にその意志を継いで
広がっていったと言う。森鴎外もその一人である。
学生時代ベースボールも愛し色々なものに興味をもったと言う。残念ながら脊髄カリエスとい
う不治の病にかかり病床に釘づけにされながらも目指すべき芸術の世界を開いていった。

 


“足なへの病いゆとふ伊予の湯に

    赤びても行かな鷺にあらませば”  子規



 “柿くうも今年ばかりと思いけり”      子規
        (病床六尺より) 


 さて次に松山城へ向かった。城山の麓からケーブルカーとリフトが並行して城まで我々を運
んでくれる。山さん、大さんに藤さんはケーブルカーの箱の中に入って行ったが、暖かい日和
りなので城さんと筆者はリフトで揺られながら登った。途中、既に春の兆しと共に紅梅、白梅
が目を楽しませてくれた。
城の広場には、市の観光課の人なのか、客寄せの為に、坊ちゃんや赤シャツの仮装をした人
が観光客と一緒に写真を撮っていた。我々は可愛いいマドンナを見つけ彼女を真中に記念写
真を撮ったことは云うまでもない。
 松山城は加藤嘉明によって築城され25年の歳月をかけて1627年に完成している。姫路城
和歌山城と共に日本三大連立式平山城に数えられる。重要文化財である。その後城主が2度
変わるが寛永12年親藩大名松平15万石として栄え明治を迎える。

           春や昔十五万の城下かな       子規

 城さん、山さん、大さん及び藤さんは天守閣へ登る為城内に入って行ったが、筆者は略10年
前に登っていたので、エネルギーを蓄える為、下で待つことにした。紅梅を前にして、広場に茶
店が有ったのでそこに腰掛け甘酒と坊ちゃん団子でひとときを楽しんだ。うららかな早春の陽
射しに思わずウトウトとしたものだった。
 ところで、今回、会計の大役をして頂いている大さんにはカメラマンとしても働いてもらった事
に心より感謝する次第です。大さんは行く先々でパチリパチリと撮ってくれているが、一向に自
分が入ろうとしない。“代るよ“と云っても”いいんだ、俺は撮っていれば、自分もそこに居ること
が証明出来るので入らなくてもいいんだ“・・と。何か変だなーと思うけど何となく説得力も有る
ような面白い表現に妙手を感じた。

4人が城から満足そうに出てきた。広場から市内を見下ろしその先に島を浮かべた海が見え
た。城さんはふと口ずさんだ。

   “熱田津に船乗りせむと月待てば 潮もかないぬ今漕ぎいでな”

この歌は丁度ここから見える風景を詠んだのですよ・・と。実に良く知っている。
(これ誰の歌? 額田の・・?)流石、今回自らガイドをかって出ただけの事はある。
城さんのガイド説明はいつも流暢で立て板に水を流すが如く、とうとうと台本無しで続くから凄
い。昨夜の夕食の時もそうだ。翌日のスケジュールの説明とその訪れ先について詳しい説明
が始まった。我々は飲みながらじっと聞き入っていたがこれが一向に止まらないまるでかっぱ
えびせんの様だ。本人にも一息入れて貰う為にこれを途中で誰かが止めなければならない、
これには大変な勇気が要る。 この流石から云えば、5段になって故郷に錦を飾るのはそう遠
くない、時間の問題だ。今回はその露払いのようなものだった。

 松山城よりケーブルリフトに揺られながらポカポカ陽気を胸一杯吸いながら降りると既にお
昼をかなり回っていた。そろそろ何処かで腹ごしらえをしようとうどん屋を探す事にした。
山さんと大さんはどうやらそば党の様であったがここは四国であり“伊予うどん“で勝負であ
る。名ガイドの城さんの先導を頂き、歩きに歩いた。荷物を持ちながらである。何と城さんは
歩くのが早いこと、早いこと、碁も若いけど歩くのも若い。しかしながら繁華街を横切りまた別
のアーケードを闊歩するも不思議な事にレストランらしきものが一向に見つからない。まして
やうどん屋などもっての外、とうとう歩き疲れて何処かお店の人に聞く事にした。うどん屋“亀
や”を探し当てて椅子に座ったのはおおげさに言えばお城から歩き始めて30分は経った後の
ように思えた。大きなうどん屋で、ワンカップお冷やに冷やしつけ麺うどんを注文した。お冷や
をぐいっと一口すると五臓六腑にしみわたり、歩いた疲れが薄らいでいった。伊予のうどんも
腰が強く美味であった。

 一息ついて、多度津、琴平への出発までにはまだ充分時間があるので、あと一箇所訪れる
事になった。“一草庵”である。自由律の俳人、種田山頭火の終の棲家である。路面電車に
乗り日赤近くで下りた。護国神社近くだと城さんは云った。また重いバッグを持ちながらテクテ
ク歩いた。午後の疲れもでて少し無口気味で歩いた。元気だったのは城さんだけだった様に
思えた。町並みの裏手に出てせせらぎが流れるひっそりとした道路に沿って歩いた。山さんは
バッグをコロで引っ張っていた。少し汗もかいてきた。“会長!まだですか?”と私。会長は元
気そうに“山頭火はもう直ぐですよ”と。思わず筆者は“本当か?”と叫んでしまったが、隣を
歩いていた山さんはクスリと笑った。この人出来るな!と思った。
 松山での予定をすべて終え、駅に向かっ
た。15:18始発の特急だ。まだ20分間があった。各々お土産を仕入れたり、待合室で
ぐったりしたり・・。
藤さんが思いでのジャコ天を買って来て馳
走してくれた。松山を去るに当ってそう言え
ばその後静子さんに会っていない。ひょっと
して今晩泊まる琴平あたりで又会えるかも?
そんな夢を描きつつ多度津までの電車の
中では、皆さんおとなしくお休みになってい
たように思う。
多度津から土讃線にて琴平着。ローカル線
で女子校生の喧騒を聞き流しながら外の田

              静子さーん
園風景をぼんやり見ていたら間もなくだった。ニッパチの琴平は観光客も少なく旅館“万よし”
まで時間は掛からなかった。

 我々の他に宿泊客は2人。やはり今はオフ・シーズンか。
風呂に入る頃、高松より安さんが宿に合流した。商用は兎も角、栗林公園を散策し楽しんでき
たと云う。
風呂上りの晩飯は、忌憚無く云わせてもらえば、3日間で一番まずいものだった。やはりしょう
がない。閑散期の観光地で美味い物を求める方がもともと無理なのだー。
技術研修最後の夜であり、全員一丸となってノルマの消化試合に努めた。3日間で一人
15局を終えた結果は添付の成績表からも明らかな様に藤さんがダントツで12勝3敗のぶ
っちぎりであった。藤さんは次回まで名誉ある“本因坊っちゃん”を名乗ることが出来る。
圧巻なのは、安さんの発案で3対3で連碁を行った事だ。併し問題は多々あった。
どう2組に分かれるか、絶対に口出しはご法度、ヒントもダメetcこれ等を今後一人一人が
厳守出きる様にしないと本来の連碁の醍醐味を味わうことは出来ない。
その初回の割には面白かった。
城さん、藤さん、安さんの組に対し山さん、大さん、
筆者の組との1時間強にも及ぶ戦いであったが、3
目の際どい差で前者組の勝利に終った。
意外と均衡した良い試合だったのか…。既に2:30
amを過ぎていたとは、やってる間誰も気がつかな
かった。
 さて今回の技術研修のすべての課程を終え、明
日は最終日、昇段(785段)の実地試験を残すのみ
となった。さあ、そろそろスヤスヤと寝床に入ろう。
おーっと、そちらは、ライオン部屋だよ〜ん。






第4日目;平成16年2月14日(土)

 明けて最終日。天気晴朗にして波穏やか。4月始めの気温になるとTV予報は云っていた。
宿を出て5分もすれば参道入り口の最初の石段にたどり着く。石段を登る時に役に立つご利益
杖を持って行けと宿の女将は云う。竹の軽い杖だ。山さんと私だけが手に取った。後で感じた
事だが、登るのに楽であり非常に重宝した。あとの4人は杖無し。若いね−。
金刀比羅宮は古くから海の守護神として信仰を集め“こんぴらさん”として親しまれる神社であ
る。最も今では、家内安全、護国豊穣、商売繁盛など沢山の神様でもあると宿の朝食を準備
しながらおばちゃんが言っていた。一人多役だ。人間は都合のいいことばかり考えるものだ。
海の守護神と言えば、昔、清水の次郎長親分も清水港の豊漁と安全を願って子分の森の石
松に太刀を奉納する旅をさせている…この出だしを、広沢寅造の浪曲で語っていたのを遠く幼
少の頃ラジオで聞いたのを思い出した。旅に出る前に、大政が石松に託した面白いエピソード
があるが、これを書き出すと止まらなくなり時間が無いので又の機会に述べることにする。
 さて、いよいよ昇段の実地試験、全員がゆっくりと登り始めた。石段両脇に並んだお店のお
姉さん方より朝も早いのに寄ってらっしゃいの声を掛けられやっと雰囲気が出てきた。
借りてきた竹の杖を有効に利用し、杖が石段に当った時の“カポ〜”と云う軽やかな響きがリ
ズミカルに鳴り響くのに歩調を合わせれば、疲れなく登ることが出来る。
本宮まで785段、筆者は同じく略10年前に、この本宮までは登った経験がある。それもあって
か案外軽く来た。最も途中で一服したり、慌てずゆっくり昇段したのが勝因か。本宮で一服し
写真を撮り、ついでに奥の院まで登る事にした。奥の院まで1368段ある。
大さんは少し体調を崩していた様で、本院で待ってることなった。立て札には本宮より奥の院
まで約20分とあったが、どうしてどうしてスタートして下りてくるまで1時間と10分は掛かった。
ゆっくりゆっくり登ったせいもある事を差し引いてもだ。つまり、大さんはひとりで本宮に1時間
余り淋しく待っていてくれたことになる。

 本宮まで戻り下段しながら途中の社務所から左の下向道を下りることにした。この事は非常
に大事な事である。判り易く説明も必要無いと思うが中にはまだ判らない御仁もいるやに思う
ので…。つまり、奥の院まで昇段したのだ。それを下まですべて下段したのでは差し引き1段も
昇段してない(腕を上げてない)事になるのだ。

 下山後、腹ぺこになりここで念願の讃岐うどんを食することになり、とある老舗のうどん屋に
入った。讃岐うどんは約1200年前、弘法大師によって唐の国から伝えられたと云う。筆者は
松山と同様にワンカップお冷やでまずグイッとやり、冷えた腰のあるうどんを喉越しに食らっ
た。讃岐の通に云わせればうどんは噛んではいけはい、喉にスルッと滑り込ませ喉で味わう
んだ・・といつかTVで見たことがある。結局2杯をたいらげた。それ程量は多くなかったので。
山さんも2杯目を付き合った。
満腹感に満足し、200mほど横の坂道を登った所の四国こんぴら歌舞伎の芝居小屋を訪ね
た。目下見物に邪魔になる中の鉄柱4本を取り除く工事をしていたが、気のいいボランティア
のおじさんに詳しく案内してもらい甚く勉強になった。
 毎年春に開演される金毘羅大芝居は2004年で20周年を迎えるらしい。昭和60年の第1回
公演で出演した歌舞伎俳優・中村吉右衛門をはじめ当世の人気役者が20年目の大芝居を
繰り広げるとの事。吉右衛門の控えの間や地下(奈落)の人手によるせり上がり等の細工を
始めて見学した。 
 
ところで琴平周辺には四国霊場が点在しており中でも四国霊場第75番所となる善通寺は弘
法大師生誕の地として有名で空海の三大霊場の一つに数えられている。今回時間の都合で
訪ねることが出来なかったのは非常に残念な事であるがまたの機会に是非と思っている。
旅の終り頃になって思い出すのはあの静子さん、とうとう琴平では会う事は出来なかった。
そして今何処にどうしているかは誰も知らない。琴平、多度津、坂出と出て岡山へ。
岡山より一路東京への新幹線の中では疲れも出て夢ん中。

 振りかえって見れば今回の第1回の旅は事の外有意義なものであった。つまり、因島の碁
つまり棋、平山さんの画、子規、空海の書、琴平本宮で聞いた雅楽の笛の音つまり琴、これ等
を一度の旅で経験した事になる。琴棋書画は中国5000年の昔から文人に愛された高貴な趣
味でもある。小天狗達(碁キチ)よ、その事を誇りに思っても良いのだ。
これ等を成就できた事に今回同行できた旅人の一人一人に感謝を申し上げ少し早いが筆を
置く事にしたい。
               ――完――


秀策記念館入口にて

              碁キチの旅日記話 
(しまなみ海道、四国瀬戸内海めぐり)